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オーストラリアからライフハックを考える

理解されない悩みは辛い。でも自分で認められるようになれば、一歩進む。

ワーホリでオーストラリアに行く前、苦手な人がいた。

ただ、その人が全く苦手…というわけではなく、尊敬する部分もあり、立場的にも自分より上の人だった。

 

その人はエネルギッシュで実際に結果も出している人だが、その分自分の意見に絶対の自信を持っている人で、私の悩みやそのできごととなった辛いことを話しても、さらっと流したり、一蹴してしまったり、できないような解決案を出したりするのだった。

 

(余談だが、この「できない解決案」を出されるのはけして間違っていないと思う。それが自分の課題だったり、すぐにはできなくても後々何かのヒントになることもある。)

 

それでまあ、ふらふらしていた私は、その人の「圧」に押されてしまっていたわけだ。

会うと負けるし、自分の辛さは塗りつぶされてしまう。その頃の私に、自分の痛みを明確に捉えて抱きしめる強さはなかった。

 

帰国後、その人からふと連絡が来た。しばらく連絡を取っていなかったこともあるが、明らかに自分の立場が変わったと思った。今までだったら、経緯を説明しながら、申し訳ない気持ちが出ていた。その人の「解決策」を、実践できていないから。その人が軽々としていることのスタート地点にも立っていない。

 

スタート地点に立てていないことは変わっていないが、申し訳ないという気持ちが自分の中から消えていた。なぜ「解決策」ができないのか。それは私はその人じゃないし、その人とは使える時間が異なる。もっと言えば、目標だって全く違うのだ。

例えるなら、その人は書道で師範になり、教室を開いて生徒を多く集めるのを目標としている。私は書道を習って、手紙を書くことを目標にしている。ぐらいの差がある。

 

せっかくやろうと思ったことが、義務感で支配されたらもったいない。私は私なりの楽しみ方を見つければいいし、その手段としてその人のアドバイスが有用なら活用すればいい。義務感になるのだったら、手放してしまえばいい。選択するのは自分だ。

 

悩みだって同じ。誰かが素通りするようなことでも、自分にとって苦しかったり苦手であったりするのなら、その悩みや苦しみは確かに存在するのだ。誰かに否定されても、その苦しみや苦手分野とどう付き合っていくかは、結局自分で決めるしかない。

 

そういう自分主体の考え方ができるようになった、ということだと思う。

「自分はこれが好き」「これを選ぶ」とはっきり言い切るのは気持ちいい。押し付けるのではなく、表明するだけでいい。なんだったら誰にも言わなくてもいいのかもしれない。

 

なのに仕事という肝心なところで、「これがいい」と言えず、体調を崩してしまった。

とにかくもっと自分を知る必要もある。今はそう思う。